ジャン・有馬の襲撃
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慶長十四年(1609年)陰暦正月。
イベリヤ王国の極東植民地珠江市において、十人の日本人が目かくしをされたまま、銃殺の刑に処せられた。そのほとんどは御朱印船の水夫たちだが、なかには小寿々とよぶうら若い女性の姿も混じっていた。彼女は前非を悔いて、恭順の意を示せば死刑は赦免されるという最後の機会を与えられたが、これを退け刑場の露と消えた。
イベリヤ兵によるあくなき暴虐にさらに多くの同胞が傷つけられ、奴隷としてイベリヤ船の船底につながれた。これは日本の南方貿易における足場を失わせるに十分な武力行使であった。
有馬藩御朱印船の宰領であった小畑三郎兵衛も船牢につながれた。長崎奉行の長谷部兵庫允はことの次第を知り、駿府の徳川家康と島原の有馬晴信へも急使を立てた。有馬晴信は洗礼名をジャン・プロタシオと称し、熱心な切支丹の庇護者であった。晴信は三郎兵衛が異国人の虜となって帰ってきたからには相応の理由があると考え、真相究明のため彼の身柄をイベリアの一行から奪還しようとする…。